『傷つきやすい人のための 図太くなれる禅思考』でこころを穏やかに

禅思考で穏やかに暮らす
私が禅の考えを取り入れたり、楽しく暮らす工夫をしようと思ったのは、ちょうど2、3年前のことでした。とてもしんどい時期があって、何をしていても人に対する恨み辛みに囚われていることがありました。人への恨み言で毎日毎日苦しい日々でした。そんな時、いろんな本を読んだり、試したりした中でこの本に出会いました。


この中でも、特に自分が助けられた箇所をシェアしたいと思います。もし、同じようなことで苦しんでいる方がいましたら、この本を手に取ってみて欲しいです。

「今」にのみフォーカスして生きる

他人に対して、「仕返し」を考えたことはありませんか? わたしはあります。しかし、この本で「前後際断」という言葉をしりました。
道元禅師の言葉ですが、禅師はその言葉を薪と灰を例に挙げて説明されています。かいつまんでいうとこういうことです。薪は燃えて灰になります。ですから薪は灰の前の姿、灰は薪の後の姿、と言う見方もできますが、そう言う見方をしてはいけない、と道元禅師はおっしゃるのです。
 薪は薪、灰は灰でそれぞれつながっているわけではない、ということ。大切なのは「今」というその瞬間のみであり、それは過去を引きずってもいないし、、未来にもつながってもいない。ということらしいのです。ひどい仕打ちを受けた、裏切られたということがあったのは「過去」で、生きているのはそことは切り離された「今」。「今」は、すでにひどい目にあった過去から切り離されているのに、仕返しを考えることはもったいないことです。

思いに囚われない

わたしは、つらく嫌な思いをした時、いつまでも心に引っかかってしまいます。もう、とっても小さなことでも何年も覚えていてフッと思い出したりして悶々としてしまいます。そんな時は、これを思い出します。
大切なのはその思いをその場に置いてくること、その場で断ち切ってしまうこと。
これは、一休さんが弟子を連れて街に出かけた時、うなぎを焼いているお店の前を通りかかり、うなぎのタレの香ばしい匂いを嗅いだ一休さんが、「うーん、うまそうじゃな」と呟いたそうです。寺に帰ってから弟子が一休さんに「先ほど、うなぎの匂いが漂ってきた時、“うまそうじゃ”とおっしゃいましたが不謹慎ではないか」と尋ねたそうです。一休さんは「おまえはまだうなぎに囚われておるのか。わしはうまそうじゃと言う思いなど鰻屋の前に置いてきたぞ」と答えたそうです。いつまでも「うまそうだ」 という気持ちを引きずっていては、「食べたかった」という思いで心が落ち着かない、ということです。
心をその場に置いてくる、と言うのは良いと思いませんか? また、どうしても連れて帰ってきてしまったら、今度は心を「いま」できることに集中して、心をそちらに向けてみるのはどうでしょうか。

まとめ:ラクに生きるくふう

どうしてもどす黒い思いが心を支配してしまう時がありますが、そう言う時はまたこれを読み返しています。最近はそういうことに煩わされることも減りました。それは、自分の心を乱す人との付き合いをやめたり、そういう環境から離れるようにしたというのもありますが、やはり考え方が変わったからだと思います。



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