旅人や俗世から離れて生きている人などはとても身軽に生きていて、持たない暮らしの参考になります。そのお手本の様な人が江戸時代にもいました。「古池や 蛙飛び込む 水の音」の松尾芭蕉です。芭蕉は旅をしながら歌を詠み、たくさんのお弟子さんや友人に囲まれながらも、住居や暮らしぶりは質素だったと言います。
松尾芭蕉の生い立ち
松尾芭蕉は言わずと知れた俳人ですが、元は伊賀上野で名字帯刀を許された上層農民のでです。松尾家は兄の代で下級武士となり、しばらくして芭蕉自身も下級武士の身分となりました。そこで学んだ俳諧にハマり、当時俳諧が流行っていた江戸へ向かったのです。
江戸から深川へ
富裕町人たちの俳諧は“点料”と言って、歌の良し悪しで金銭のやりとりが行われており、嫌気がさした芭蕉は深川へ移住しました。今の東京だと深川も23区ですが、その頃はだいぶん静かだったのでしょうか、隅田川を渡ったあたりに質素な深川の庵を建てました。四畳半の部屋と、囲炉裏があるだけの質素な庵に弟子たちが集まっていた様です。一度焼失したものの再建され、その後芭蕉庵と呼ばれるようになりました。
芭蕉の瓢箪(ひょうたん)
芭蕉に関しての文献を読むと必ず瓢箪が登場します。包丁1本、茶碗10、瓢箪1と彼の数少ない持ち物のひとつに瓢箪が入っています。この瓢箪は芭蕉庵でたびたび開催されたという俳句の会で、弟子の北鯤(ほくこん)と言う人からもらった物で、とても大きかったそうです。この瓢箪を見た者は、皆口々にどのように使うかを論じていましたが、芭蕉は「人は何かを見て、それを何かに使おうと考える。しかし自然のものは何から何まで人に使われるためにできたものではない。見ているだけでも楽しいじゃないか」と思ったそうです。人も同じで、何かの役に立とうが、生まれた時から愚かであろうが、そのままで良いじゃないか、と。
その後、この瓢箪は米入れになり、訪れる人がこっそり芭蕉のために瓢箪の中に米を満たして行くようになったということです。この瓢箪は、新しい庵にも持っていかれたそうです。
ものひとつ 瓢はかろき 我よかな
瓢箪のエピソードがとても好きなのですが、それにしてもよく登場するなあと思っていたら、瓢箪しか持っていなかったからなんですね。この軽い瓢箪はまるで自分の人生の様だ、と言う意味なのか、それともそれくらいの物で充分なんだから気楽に生きなさいよ、という意味なのか。
瓢箪エピソードはこちらでどうぞ。18ページから。
芭蕉さま瓢箪エピソードはこちらでどうぞ。18ページから。
国立国会図書館 『芭蕉さま』 |
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